SHANTiROSE

INNOCENT SIN-08






 マルシオがクライセンの弟子になった途端、ウェンドーラの屋敷のいろんなところが開けた。
 今まで行けなかった場所や知らなかったことを見ることになり、今更驚くというより、着いていけずに困惑することが多かった。
 サンディルが趣味でやっている園芸さえ、未知の領域へ続いていた。薄暗い種子の保管庫には奥があったのだ。今まで魔法で見えないようにされており、クライセンが呪文を唱えると、レンガの壁にしか見えなかったそこに道ができた。足を踏み入れた途端、マルシオは懐かしい「恐怖」を思い出した。
 魔薬だ。ティシラとノーラの洞窟に迷い込んだときの恐怖と不安が、体の底から甦る。
 暗くて寒くて湿度の高い室内はまるで自然の洞窟だった。今までよくあるただの地下室だったのに、少し暗闇に進んだだけで人の手の入ってないような不揃いな岩肌に囲まれる。こんな場所が屋敷の中に通じていたら湿気や毒素で屋敷の素材にも人体にも影響が出るはずだが、魔法で隔離されているため、誰も知る由はない。
 奥へ進むほど、同じ土地だと思えない異常な空気に包まれていく。風もないのに、何か、軽いものの擦れる音がする。魔薬の草が動いているのだ。微かな物音は洞窟の中で響いて、近いのか遠いのかも分からない。それが更に不安を掻き立てる。
「危険はないから。そんなに情けない顔をするんじゃないよ」
 先に進むクライセンは振り返って、足の震えているマルシオに声をかけた。
「ここは人口の洞窟だし、屋敷の中だ。これだけの魔薬が自然に繁殖するような場所だったらまともに歩くこともできない。ここは父が魔薬の研究をしているうちに出来上がった栽培室だ。決まりさえ守れば安全は保障されている」
「なんで魔薬を育ててるんだよ」
「父の趣味だ」
「趣味って……」
「そういう人なんだよ。だから私も酷い目に遭った」
 クライセンだけではなく、世界が恐怖に包まれた。ここが、あの魔薬戦争の根源の場所。
「どうしてここをそのまま残しているんだ?」
「魔薬は使い方次第で毒にも薬にもなる。人間にとっては、いや、場合によってはこの世界を根本からひっくり返すほどの力を持っている。だが魔薬も自然の一部に過ぎない。自然からすればこれらもただの草の一種だ。父は知りたいだけ。この草の生体を。これで世界を滅ぼすだの救うだの、そんな野心も正義感も何もない。知ることだけが目的なんだ」
 その好奇心があの戦争を引き起こした。何よりも一番の被害者は息子であるクライセンであると言っても過言ではない。そのくらいのこと、この父子なら分かっているに決まっている。普通なら、二度と同じことを繰り返さないため、人類の未来のため、その好奇心を封印するべきと考えるだろう――普通なら。
「父はもちろん、責任を取るためにすべてを葬り去るべきだと考えていたよ。でも、私がそうしろとは言わなかった」
「どうして? ノーラは確かに恐ろしい野望を持っていた化け物だった。でも、サンディル様の知識がなければあれほどの魔薬を作るには至らなかったはず」
 未然に防けたかどうかは結果論だとしても、再発を防止することはできる。
「あのとき私とノーラが使った魔薬の調合方も、まだ残っている」
「えっ、どこに?」
 マルシオが驚いて蒼白すると、クライセンは微笑みながら自分の頭を指さした。
「父の頭の中だ」
 書物に書き残しているわけでも、現物を保管しているわけもはない。サンディルの記憶が、この世に残っている唯一の「世界を滅ぼす力を持つ魔薬の製造法」ということだ。
 すべてを葬り去る。つまり、その意味はサンディルが死なないことには適わないということ。マルシオは閉口した。
「情で父を許したわけではない。私は好きにすればいいと言っただけ」
「……じゃあ、サンディル様は残すことに決めたんだ」
「一応、私に一つの相談を持ちかけてきたけど」
「どんな?」
「もしも、再び自分の技術や知識によって恐ろしいことが起きたとしたら、戦ってくれるか、と」
 マルシオは唖然とした。
 その質問にクライセンが何と答えたかは、すぐに分かった。彼がいやだと言う姿が想像できない。きっと、なんの条件もつけずに軽く二つ返事をしたに違いない。
 クライセンが味方なら、怖いものはない。失敗しても諦めがつく。サンディルがこの研究施設を残した理由が分かった。
「……やっぱり、親子だな」
 マルシオがそう呟きながら洞窟を見回すと、不思議と怖くなくなっていた。
 魔薬は、その世界を仕切っていたノーラが死んでから表舞台に出ることは少なくなった。だが今でも危険な薬物として裏世界で密売されている。大きな組織の悪党を逮捕しても、そこから締め付けられていた他の組織が巨大化し、同じことを繰り返す。魔薬そのものは自然に自生している生物に過ぎず、絶滅させることはできず終わりは見えない。
 しかし毒と薬は紙一重。近年になって進み始めた医療に活用できないかと注目されている。それでもやはり毒には違いないため、ごく一部の許可を得た者だけが研究の権利を持っており、個人での取り扱いは処罰の対象となっていた。
「サンディル様はここの許可をもらっているのか?」
 クライセンは素知らぬ顔で「いいや」と答えた。
 つまり、これは犯罪だ。だがこの国の法など彼らに通用するわけがない。
「じゃあ、サンディル様の研究結果を世に出すってことはないのか?」
 その質問にも「ない」と簡潔に答えられ、マルシオはもう期待するのをやめた。
「ところで、こういう話、ティシラには秘密にしたほうがいいのか?」
 気持ちに余裕のできたマルシオは、ふと尋ねた。
「ティシラは魔法使いじゃないけど、この家の一員だし。隠す必要があるのかどうか聞いておきたくて……ああ、もちろん他の人には言わないけどさ」
 クライセンがマルシオに教えていることは決して常人には理解できないことである。弟子ごときがペラペラ喋ったところでそう問題にはならないし、マルシオなら言っていいことと悪いことの区別くらいはできると信用している。
 ティシラに関しては、とくに思うところはなかった。
「別に話してもいいけど」クライセンは当たり前のように答えた。「ティシラはこういうの興味ないだろ?」
 確かに、と、マルシオはすぐに納得した。



 薄暗い部屋を出て廊下を歩いているとき、クライセンがぽつりと口にした。
「なあ、ルーダって何なんだ?」
 マルシオはあまりに唐突な質問に「え?」と聞き返す。
「ルーダ神だよ」クライセンは表情を変えず。「天使の頂点に立つと言われている唯一神」
 それでもマルシオはすぐに答えることができずに戸惑って俯いた。様子のおかしい彼に、クライセンは追い打ちをかける。
「知ってるんだろ?」
「知ってるけど……」
「ああ、天使はその名では呼んでなかったんだっけ。何でもいい。五大天使が守る神だよ。彼は神か? それとも天使なのか?」
「どういう意味だ?」
 質問してるのはこっちだと思いつつも、クライセンは続けた。
「魔界の頂点はティシラの父親、人間界にも王が存在するだけで神はいない。なのに天使の世界だけ『神』がいるっておかしいだろう。神という言葉そのものが人間が造り上げた幻想で、ルーダという者は神という名の天使なんじゃないか……そんなことを、ちょっと思ってね」
 マルシオはまた目を泳がせ、言い難そうに呟いた。
「……俺には、答えられない」
「なぜ?」
「天使の頂点はルーダなのか、神なのか、そういう疑問を抱くことさえなかった。他の天使もそうだ。彼が何者なのか、知りたいとか、探ろうなんて誰も考えないんだ。多分、俺も含めて天使のすべて、そういうふうにできている」
 クライセンは真剣な顔をするマルシオを横目で見つめた。長い廊下は前も後ろもなく、二人の足音だけが響いている。この話が終わるまで、廊下は続く。
「今考えることはできないのか?」
「できない。彼に関してはなんの興味も湧かないんだ。考えようとしても、何を考えたらいいか分からない」
 マルシオの感覚が、クライセンには理解できなかった。ルーダとは何者なのか、今この場で想像し、疑問を抱くことさえできないとはどういう意味なのだろう。
「禁止されている?」
「違う。誰も禁止なんかしない。考えないからだ。誰も考えないから、誰もいいとも悪いとも言わない」
「でも天使はその神を崇めて敬っているんだろう?」
「それも人間の言葉だ。そこに居ることは分かっている。でもだから有難いとか、そういう思いがあるわけじゃないんだ……」
 クライセンは、せめてその感覚をもう少し知りたいと思ったが、次第にマルシオは頭を垂れ、足取りも重くなってきている。そしてとうとう片手を額に当てて目を閉じてしまった。
「……ごめん、この話はもうやめてくれ」足を止めて。「本当に、何も答えられないんだ。考えようとすると頭が真っ白になって、空になった頭の中に関係ない記憶や感情が流れ込んできて、自分でも整理できない。目眩がする。これ以上は無理だ」
 嘘をついているようにも、何か隠しているようにも見えなかった。天使の体がそういうふうにできているのだと思う。
 クライセンは今目の前で起こった現象が真実だと受け止め、もう終わりにした。



 あのあと体調を崩したマルシオは部屋に戻って休んでいた。
 次の日には熱を出してしまい、クライセンに「知恵熱だな」と言われ、それを聞いたティシラに笑われるという屈辱を受けた。
 魔法王の弟子になったはいいが、能力が追いついていない――そう言われても否定はしないどころか、自分でも認めていた。
 まだ始まったばかり。弟子になるということは修行なのだ。楽なわけがない。マルシオはそう自分に言い聞かせ、励まし、二日ほど寝込んでいた。





   

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