SeparateMoon



12






「何やってるのよ!」
 次に堪らず飛び出したのはティシラだった。
 ジギルに馬乗りになっているレオンに向かい、止めようと両手を出して走ったが、足元が悪く体制を崩してほぼ体当たりするような格好でレオンとともに瓦礫の上を転がった。
 恐怖と苦痛から解放されたジギルは急いでレオンに背を向けて逃げようとする。しかし腰が抜けておりすぐには立ちあがることができず、這い蹲ったままその場を離れた。
 瓦礫に体を打ち付けたレオンは、声一つ上げずにゆっくりと上半身を起こして項垂れている。
 考えなしだったとはいえかっこ悪く転んだティシラは、とりあえずレオンの様子を伺う。殺気は消えており、これ以上暴れることはなさそうだった。
 ヴェルトは、レオンはティシラに任せてアシュリーを案じた。かなり強い力で吹き飛ばされ、叩きつけられた壁ごと地に落ちたところまでは確認できた。そのあとは物音一つしないあたり、気を失っているか、最悪は命を落としている可能性もある。見捨てることはできないヴェルトが駆け出そうとした、そのとき、上空から鷹の羽ばたきが聞こえた。間もなく大鷹がヴェルトの近くに降り立ち、背から魔法使いが飛び降りてきた。
「ヴェルト様、何事でしょうか」
 あれだけ大きな力がぶつかり合えば、寝ていた者でさえ目が覚めて当然だと思う。だからと言って今ここで全部を説明できるものではなかった。それに、ヴェルト自身も少々混乱している。
「……他の者はどうしている?」
「はい?」
「いや、来たのは君だけか?」
「いいえ。他の魔法使いも、アンミール人も皆何事かと外に出てこちらに向かっています」
「そうか……もう終わった。何も危険はないから、戻るように伝えてくれ」
「は……」
 今はまずアシュリーを、と、集中力に欠けるヴェルトが再度足を出した、出そうとした。
 すると、アシュリーのいるはずの場所から甲高い口笛が響いた。
 その音に反応した大鷹が首を持ち上げ、足を縮めて羽ばたき、音のしたほうに飛び立った。
 一瞬の出来事だった。アシュリーは生きていた。崩れた壁の下敷きになっていたが、隙間から手を伸ばし、呼び寄せた鷹の足を掴む。鷹は着地することなく弧を描き、旋回して墓場に背を向け離れていった。
 ヴェルトが頭上を駆け抜けていく鷹を仰ぐと、アシュリーが汚れた白いマントを揺らしながら羽を掴んで鷹の背に移動しているのが見えた。彼女が何を考えているのかは分からないが、もう戦う気はなく、そしてレオンと話し合うつもりもないことだけは確かだった。引き留める理由はなかった。
 瓦礫の上を覚束ない足取りで逃げていたジギルも大きな鷹の羽ばたきの風に煽られ、顔を上げた。偶然、アシュリーの乱れた髪の隙間から覗く瞳と目が合った。
 ジギルは無意識に片手を伸ばしていた。アシュリーもまるで最初からそのつもりだったかのように鷹を操り、ジギルの頭上すれすれまで高度を下げ、彼の腕を掴んで引き上げた。
 ジギルは慣れない鷹の背に乗り、落ちないようにしがみついた。鷹はあっという間に城跡から離れていく。
 その途中、騒ぎに駆けつけていた複数のアンミール人を視界に捉えた。彼らも足を止めて鷹を見上げていた。
 その中に、不安そうに手を繋ぐシアとセロンの姿があった。二人はジギルを見ていた。夜空の下、ジギルは胸を締め付けられながらも、目を逸らした。



 一部始終を見ていたティシラは、大人しくなったレオンを置いてヴェルトに近づいた。
「追わなくていいの?」
 ヴェルトはジギルとアシュリーの消えた空を見つめている。
「ねえ。アシュリーはともかく、ジギルは? ほっといていいの?」
「……分からない」
「え?」
「アシュリーだけではなく、ジギルも自分の意志でここを去ったんだ」
「でも、アシュリーはあんな状態だし、今は世界中が荒廃してるのよ。ジギルが逃げたくなるのは分かるけど、いつどこで何が起こるか分からない。危険すぎるわ」
 ヴェルトは言葉を失っていた。今は冷静な判断ができない。レオンに目を移すと、彼は膝をついて座り込んだまま動かなかった。追えと言われればどこまでも追うが、命令がなければ体が動かないようになっている自分に気づく。それがいいことか悪いことかも分からない。すべてはレオンのため。だがそのレオンが指揮を執れる状態ではない、もしくは執る気がない場合はどうすべきなのかを教わっていなかった。
 腑抜けになってしまったレオンとヴェルトに、ティシラは呆れるしかなかった。追うなら急いだほうがいいと思っていたが、二人の様子に釣られて脱力する。
 周囲に人が集まり始めて騒がしくなってきた。ヴェルトに指示を受けた魔法使いが戻るよう声をかけている。だがかろうじて残っていた城壁も壊れており、夜になると浮遊していた光の玉も消え去っている。ただ事ではないだろうと説明を求める声が止まらなかった。
 危険はないという説得を受け、渋々帰り始めた人々の中、セロンがシアを連れて魔法使いに使づいた。
「あの……ジノは?」
 その声を聞いて、ヴェルトが振り返った。問われた魔法使いは何も知らず、答えようがなかった。
「さっき、鳥の背中に乗ってたように見えました……どこへ行ったのでしょうか」
 あの二人はジギルが気にかけていた子供たちだった。
 ジギルは「もう誰も死んでほしくない」と言った。その思いでここに来た。なのに、こんな形で逃げ出すしかなかったなんてどれほどの無念か、ヴェルトは慮った。
 しかし、ジギルも一人ではただの少年だ。自ら役目を放棄すれば魔法使いとの縁も切れる。それを責めることは誰にもできない。
 同じことを考えていたティシラに、ヴェルトが呟いた。
「ジギルは……アシュリーが傍にいる。きっと、安全な場所に辿り着くだろう」
「本当にそう思ってる?」
「…………」
「そう思いたいだけじゃないの? 見えなかった? アシュリーの姿」
 ヴェルトは数回瞬きして目を泳がせた。
「見えたんでしょ? アシュリーの髪、真っ白だった……もう彼女にはろくな魔力は残ってないと思う」
 アシュリーは老人だ。九人分の老魔法使いが一つに集まって強い魔力を宿していたため若い姿になっていた。その彼女が老人に戻っていたということは、集めていた魔力をほとんど放出したということ。レオンの力がそれを上回り、一瞬で撃退されたが、彼がそうしなければ甚大な被害が出ていたほどの威力だった。
「アシュリーはもう長くない……そしたら、ジギルは見知らぬ場所に一人になってしまうのよ」
 それでも、ヴェルトの体は動かなかった。



 満月の輝く夜空を割くように、一羽の大きな鷹が駆け抜けていく。
 必死で鷹の背に掴まっているジギルだったが、まだ安心できる状態ではなかった。
 背後にいるアシュリーの様子がおかしい。美しかった金髪は真っ白に変化しており、顔色も悪く、体も一回り小さくなっている。
「おい、どうしたんだよ、その顔……」
 乱れた髪から見え隠れする彼女の顔は、生きているのが不思議に思うほどやつれ、骨と皮だけになってしまっていたのだった。
 垂れた瞼の下の灰色に濁った眼球は、ほとんど見えていないようで虚ろだった。ジギルの背中にもたれかかるアシュリーの体も異常に軽く、服の上からでも分かるほど痩せ細っている。
 アシュリーはジギルの耳元で口を動かしていた。
「え? なに?」
 か細い声は風の音でかき消されるほど弱々しい。ジギルは必死で耳を傾けた。
「……見える」
「な、なにが?」
「見える……光が……」
 アシュリーの様子がおかしい。濁った瞳が遠くを見つめている。
「ザイン様が、私たちを、呼んでいる」
「な、何言ってんだよ。しっかりしろよ。魔力が戻れば何とかなるんだろ? 降りて、休もう。な?」
「私たちの役目は終わった……レオン様は、ザイン様をも凌ぐ、魔法使いになられた。私たちは、それを見届けた」
 ジギルは背筋に寒気を感じた。
 アシュリーは、決してレオンを憎んでなどいなかった。あのときは怒りで平静を失っていたかもしれないが、圧倒的な魔力の差の前に、彼らは魔法使いとしてレオンを認めたのだ。
「だけど、レオン様にも間違いはある。ザイン様はレオン様を愛しておられた。親子で引き離されたのは、ザイン様も同じ……それでも生き永らえていられたのは、決して周囲に強要されていたからではない。ザイン様のご遺志なのだ。成長されたレオン様に会いたい。寿命を超えても尚、その思いだけは、ずっと枯らさずにいらっしゃったのだ」
「そ、それ、なんでレオンに言ってやらなかったんだよ」
「……証明はできないからだ。そして、あまりにかけ離れていた。私たちはザイン様がどんな表情で赤子だったレオン様を抱いていらっしゃったのかを見てきた。後にも先にもないほどの幸福に満ちていた。一生忘れられぬほどの美しい時間を知る私たちには、レオン様のお気持ちが理解できなかった」
「知らなかったからだよ! やっぱりレオンにはお前が必要だ。お前みたいに父親をよく知る奴と、もっと話をしたほうがいい。レオンは父親のこと、何も知らないんだ」
 アシュリーの枯れ木のような指先が揺れたのが分かった。
「レオンがおかしくなったのは、人との繋がりが希薄だからなんだ。家族や友人の気持ちとか個性とか、そういう、自分と同じだったり違ったりする感覚を知っていけば、変わると思うんだ。俺じゃないんだ。あいつには、お前みたいなのがいなくちゃダメなんだ。だから……」
 ジギルは言いながら、涙を零していた。
「人間は、過去にこだわる。失敗を恐れ、前に進むため……というのは建前だと、お前は思わないか?」
「……え?」
「本当は、失敗を過去に押し付けたいだけなのだ。人間には過去も未来もない。今、現在。それだけあれば生きていける」
「どうしてそんなこと言うんだよ」
「過去が人間の都合で書き換えられてきた様を、ずっと見てきた。未来も、結局は人間にとって楽なほうにしか進まない。だからレオン様には、私たちのような老人の言葉など必要ない。亡くなった父親と決別し、前を向いていらっしゃる。それでいい。真実など、未来には何の影響もないのだ」
「そうかもしれねえけど……」ジギルには否定できなかった。「でも、そんなの、悲しいだろ」
 風で散った一粒の雫が、乾いたアシュリーの頬に伝った。その小さな一滴が、アシュリーの心に染み渡った。
「ジギル……あのとき、お前と目が合って、気がついたら手を掴んで連れてきてしまった……だが私たちも、いや、私も、一人になるのが、怖かったのだと思う」
 アシュリーはまた遠くを見つめ、微笑んでいた。
「ザイン様のために、死んでいった同胞の気持ちが分かるよ……自分の意志を継いでくれる者がいる。だからすべてを捨てることができたのだ。ジギル……最後に、お前がいてくれてよかった」
「え? なんだよそれ。俺は何もできないから逃げたかっただけなんだ。俺は何の役にも立たねえんだよ! なあ、頼むから……死なないでくれよ!」
 涙の止まらないジギルに、アシュリーは引き留められた。そう感じた。大人として、泣きじゃくる子供を慰めたいと思う。
「寿命なのよ……本当なら、私はもっと早く死んでいた。魔法を使ってほんの少し延命して、そのときが、遅れて来ただけ。全部、死に損なった老人の、最後の我儘だったの。だから、泣かないで」
 緩やかに鷹の速度が落ちていく。次第にジギルの涙が頬に流れ落ち、そこで自分が泣いていることに気づく。
「ジギル、どうか、私のことを覚えておいて……それだけでいい。それと、これは忘れていいから、聞いて。アスナ、リドー、マルディノス、グリオン、サンダー、アザリー、ヒル、マーカー……」
「お前と一緒にいた魔法使いか……?」
「そうよ……もう、力尽きてしまったけど……私も、もう、すぐ後を追うわ……」
 ジギルははっと息を飲んだ。鷹は魔法使いの魔力で操ることができる。下降しているのは、つまりアシュリーの魔力が弱くなっているからだと気づく。
 近づく地上を見下ろすと、広大な森が広がっていた。このあたりには人は住んでいないため、革命の被害は少ないようだった。だが未開の森は木々が茂っており、着地できる場所がない。そしてもうこの森を抜けて移動するほどの時間は残っていなかった。
 アシュリーの皮膚に小さな亀裂が入り、ジギルの耳元で薄いガラスが軋むような音がする。
「おい……!」
 肩越しに見たアシュリーの姿は変り果て、本当に人間かどうかも判断できないほど恐ろしい容貌になっていた。まるで、古く腐りかけた蝋人形だった。限界を迎えた肉体は細かい屑になり、風に乗って散り散りになっていく。筋肉も脂肪もほとんどなく、血管や内臓は乾き、普通ならとっくの昔に死んでいる状態なのだろう。こんなふうに生きた人間が崩れていくなんて信じられず、ジギルは目を疑った。
「おい、アシュリー!」
 アシュリーの崩壊は止まらない。なのに、彼女は苦痛とは無縁のような穏やかな表情を浮かべていた。
「ああ、ザイン様……今、そちらに、参ります……」
 白いマントの上からでも分かる。痩せ細っていた体が更に小さくなっていった。それに比例するように、鷹の下降も止まらず森に近づいていく。
「そ、そうだ……」ジギルは焦りながら、上着のポケットを探った。「これを!」
 取り出したのは魔薬の入った小瓶だった。
「これで魔力が回復するかもしれない……魔法使いが飲んだらどうなるか分からないけど、あとは、俺が何とかするから……!」
 考えなしの行動だった。
 しかしアシュリーは、もう戻る気はなかった。
「ありがとう……」
 その言葉を最後に、アシュリーは完全に崩れ去った。
 中身を失った白いマントが宙を舞い、はためきながら遠い夜空に吸い込まれるように遠ざかっていく。
 鷹がグンと高度を落とした。呆然としていたジギルは体制を崩して背から滑り落ちる。
 ジギルは掴むものがなくなり、深い森の中に落ちていく。
 明るい満月以外は何もない空虚な夜空を見つめていると、大きな鷹は魔力のないジギルのことは気にも留めずに遠くへ飛び去っていった。

 ――また、目の前で人が死んだ。
 俺は、誰一人助けられない。
 でも、もうこれで終わり――。

 ジギルは自分も死を覚悟し、悲しみに捕らわれながら気を失った。







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