SeparateMoon



13






 透明な青い空を見つめていると自分が小さく感じる。
 空はすべての大地を包み、その先には無限の宇宙が広がっている。無限――言葉のとおり、人間が一生をかけても、何世代に渡って何百年、何千年と進み続けても果ては見えない。きっとその途中には世界中の砂粒以上の数の星々がぼんやりと浮かんでいて、すべてが意思を持たずに宇宙の法則に従って生まれて死んでいく。
 それらは「なぜ」なんて考えない。隣にいる星にも、遠くにいる物質にも挨拶なんかしない。ぶつかっても謝らない。永遠という尺のうちのほんの僅かな時間の中、最初から最後まで自分がどう生きて死ぬのか、全部決められているからだ。
「……俺も同じだ」
 澄み渡った青い空の先の地平線を見つめながら、ジギルは呟いた。
「決められた法則に従ってるだけ。痛いとか、苦しいとか、悲しいとか、この感覚も感情も、そうなるように仕組まれてるだけなんだ」
 瞳は虚ろで、生気はない。上空高くから落下したジギルだったが深い森の木々がクッションになって一命を取り留めた。
 だが鬱蒼とした森の奥、気を失っていた彼は数時間で息を引き取るほどの重傷を負っていた。深い夜空に浮かぶ満月がジギルの最後に見たものになるはずだった。なのに、と思う。彼はまた美しい青空を眺めている。
 背後には、落ちた森とは違うそれが続いていた。開けた場所は丘になっており、足を引き摺りながらも歩けるようになったジギルは緩い風が流れるその場所まで移動し、倒れた大木に腰かけていた。目前には何もない空と大地が広がっている。
 ジギルが意識を取り戻したのは救出されて四日後のことで、それからさらに二日が過ぎた。動けるようになったとはいえ、まだ介助が必要な状態だった。まだ「一人になりたい」という彼の願いは叶わない。
 ジギルに肩を貸してここまで連れてきた者が、傍で笑った。
「ナナシ君、また変なこと言ってるね!」
 少女の声は大きくて、うるさいとジギルは思っていた。しかし彼女は相手が死にかけだろうが無視しようが遠慮なく絡んでくる。
「やっぱり頭打っておかしくなってるみたいだね。まだ記憶は戻らないの? ねえ、名前くらい思い出せないの?」
 彼女は何も語りたがらないジギルを勝手に記憶喪失だと決めつけていた。どっちでもいいとジギルは思う。自分が生きていることが不思議で理解できなかった。生き残るならいっそ全部忘れたほうがどれだけ楽だっただろうと、そう思い詰めていたジギルは助けてくれた者に名乗ることさえしていなかった。
 少女の名はユリナ。驚くほど人懐っこく、鬱陶しいほど明るかった。いろんな経験を重ねたジギルには彼女が魔法使いだと、つまりランドール人だと一目で分かった。
 目を覚ましたとき、頭は重く、体は激痛で動かない。そんな自分に見知らぬ少女が笑いかけてきた。あの高さから落ちて助かるはずがなかったジギルは、もしかしてここは死後の世界なのかと思った。だがゆっくりと感覚が戻ってくるにつれ、呼吸のたびに体に浸み込んでくる人間の生活臭を確かに感じ取ったとき、何も変わっていないこと、つまり、まだ生きていることを認めるしかなかった。
 死を覚悟したはずなのに、また生かされた――しかも、また、魔法使いに、と、いい気分はしなかった。

 ジギルが目を覚ました場所は粗末な掘っ建て小屋だった。他にも同じような小屋があり、魔法使いと生き残ったアンミール人が七十人ほど寄り集まって小さな集落を作っていた。
 似たような状況を知っているジギルは驚かなかった。きっと世界のあちこちにこういう集落ができていて、少しずつ生活を立て直そうとしている人々がいるのだと思う。
 ここに魔法使いはユリナともう一人、カロンという若い男性がいた。二人は以前から親しいようで、片方がジギルの様子を見ていると、大抵もう片方も近づいてくる。
 カロンはいつも朗らかなユリナと対称的で、ほとんど笑わず切れ長の冷たい目をしている。しかしそんな外見とは裏腹に、ユリナとは気が合うようだった。
「おい」と、やはりカロンは二人を追ってやってきた。「死に損ない野郎はまた独り言か」
「あっ、カロン」ユリナは彼に元気に手を振り。「独り言じゃないよ。私に話してるの。でも難しくて分からないの」
「なんだって? 俺にも聞かせろ。怪我人のくせにナンパしてるんじゃないのか」
「それはないよ。ナナシ君、ボロ雑巾だよ。全身骨折しまくって、骨が内臓に刺さってたし、肉は抉れてたし、失明寸前だったんだよ。普通なら死んでたし、まだいつでも死ねる状態だよ」
「まったく、お前はついてないな。たまたま満月を見ていたら何か落下するのが見えて、こんなボロ雑巾を助けなくちゃいけなくなったんだ」
「どうしてそんなこと言うの? 助けられたんだよ。満月が私に教えてくれたんだよ。私は嬉しいよ」
「他にも治療が必要な奴がいるんだぞ」
「またそういういい加減こと言って。今はもう重傷者いないでしょ。私が治したんだから」ユリナはジギルに顔を向け。「ねえ、私ね、治癒の魔法が使えるの。めちゃくちゃ優秀なのよ。君もちゃんと治してあげるからね。治るまで逃がさないからね」
 そう言ってウインクするユリナに、ジギルは目線を移した。彼女の言葉に違和感を抱いたからだ。するとユリナは笑った。
「分かってるからね。どうせ死ねばよかったとか、生きててなんの意味があるんだとか思ってるんでしょ? そういう人、いっぱい見てきたから分かるの。でも生きてたら、絶対いいことあるから。だから私は絶対見捨てないからね」
 大きな目を輝かせながらジギルを励ますユリナが、ジギルは理解できなかった。きっと、彼女が無邪気に笑っていられるのは自分のことを知らないからだ。こんな純粋な人間は嫌いだ。関わりたくない、関わるべきじゃないと思うが、体が自由に動かなかった。
 改めて二人の姿を見てみると、どちらも草臥れた白いスーツのような服を着ていた。あちこち汚れ、解れており、ユリナに限ってはパンツの裾を破り取ったのか、太ももが露わになるほど短くたくし上げている。
 変わり果ててはいるが、この服を、ジギルは見たことがある。魔法軍の制服だ。彼女たちもそれに属していたのだろう。探せばこれよりはマシな服もあるだろうに、未だに身に着けているということは軍人としての誇りを守っているのだろう――そうは見えないが、と同時に思う。
 ジギルの視線に気づき、ユリナはまた一方的にしゃべり始めた。
「この服ね、気に入ってるの。高級品なのよ。私たち山奥の出身だから、こんな上等な服、初めてだったの。強いし伸びるし、かっこいいのに動きやすいの。他の服じゃ物足りなくなっちゃってね、今も気に入ってるの。だから解れたら繕って、汚れたら洗って大事にしてるのよ。さすがにあの戦闘には耐えられなかったけど、他の服だったらこんなものじゃ済まなかったよね。また新しいの欲しいなあ」
「死体から剥がせばいいだろ」とカロン。
「それはダメ。最低よ。それに、これは一つ一つその人に合ったサイズで作られてるの。他の人のじゃこの着心地の良さは感じられないの」
 薄汚れた服一つのことでよくしゃべるものだというのがジギルの感想で、内容はあまり聞いていなかった。
 実際、頭が回らなかった。視界も鮮明ではないし、手足には包帯替わりのボロ布で接ぎ木が巻き付けられている。じっとしていても体が重く、時折、頭や手足、腹部のあちこちに激痛が走る。動くたびに皮膚や肉が裂けてしまいそうな感触もあり、内臓の位置がずれているような不快感が続いていた。鏡で今の自分の姿を見ていないとはいえ、ユリナの言うとおり、まさにボロ雑巾状態なのだと思う。
 普通なら死んでいるほどの重傷だが、一命を取り留めたのはユリナの高度な魔法が及んだからだ。自分で言うだけあって、それなりの実力を持っているのだろう。それだけの魔法を使うにはかなりの魔力を要しそうなものだが、彼女なりのやり方があるのかもしれない。だがジギルはそれを知りたいは思わなかった。
 ただ一つだけ、気になることを訪ねた。
「……お前たちの、マントの色は?」
 もう赤でも白でも驚かない。ユリナは意外な色を答えた。
「黒よ」そしてまた聞いてないことまで話し出した。「あれもすっごいきれいだったのよ。重厚なのに軽いし、寒いときは温かくて、暑いときは涼しいの。すごいよね。でもさすがに細切れになって残せなかったんだ。魔法使いにとってマントは鎧みたいなもので攻撃を防いだり、手の内を隠したり便利なんだよ。知ってた? 私は魔法使いになるまで知らなかったんだよ」
 ジギルは目を逸らして返事をしなかった。
「私たちのマントのこと聞いてくる人、初めてだよ。君、魔法に詳しいの? どうして聞いたの?」
 どうしてなのか、自分でも分からなかった。白だの赤だのに翻弄されたばかりだったからかもしれない。ユリナの質問には答えないのではなく、答えられないが正しかった。
 ねえ? と首を傾げるユリナを他所に、ジギルはぼんやりと昔のことを思い出していた。まだそんなに古い記憶ではないのに、遠い過去に感じる。洛陽線を行き来していた魔法使いたちの姿だ。真っ先に思い出すのは真っ赤なマントを羽織ったアンバーだった。今気になっているのは、彼の背後にいた名も知らぬ魔法使いたちだ。彼らのマントは紺色だった。
 そういえば、黒いマントなんて見たことがない――。
 元気なジギルならここからたくさんの思考を巡らせるのだが、そのときの自分を思い出せないほど、彼は心身ともに疲弊していた。
 好奇心を失ったジギルは、いよいよ生きる意味がないと自覚する。このまま野垂れ死んでしまいたかった。自分が殺してしまった人たちへの罪滅ぼしはできないが、最早そんな力もなければ、始めからその程度だっと思うほうが納得できる。生まれたときから名もない小さな虫だった。何かの間違いで、一瞬だけ「神」の領域に迷い込んだだけだったのだ。罪も罰もない。裁かれるほど大層な存在ではないのだから、このまま黙って消えよう。
 しかし、どうやらこの二人は放っといてくれないようだ。こういう面倒な人間がいることは知っている。だから、ジギルはまともに歩けるようになるまでは好きにさせようと思う。その時が来たら一人でどこか誰もいないところに身を潜め、目が覚めなくなるまで眠ろうと決めていた。
 ユリナとカロンはそんな廃人同然のジギルの心情など気にも留めなかった。
「ナナシ君、名前を思い出すまで仮の名前を決めようよ」
「ボロでいいだろ。ボロなんだから」
 冷たく言うカロンを止めるかと思いきや、ユリナはあっさりと受け入れた。
「そうだね。かっこいい名前にすると、本当のを思い出したときどっちがいいか迷っちゃうもんね。ボロでいっか」
 興味を示さないジギルの背後で、二人は勝手に話を続けていく。
「そういうことだから、君の仮の名前はボロだよ。他の人にもそう言っとくからね。でも本当の名前を思い出したら教えてね」
 ジギルは返事をせずに虚ろな表情のまま、なんとなく腰に手を当てた。あると思っていたポケットがなかった。服も着替えさせられていたことに今気づく。これだけの怪我なのだから、血や汚れ、破損が酷かったのだろう。仕方のないことだという気持ちと同時、ジギルは自分の中から大きなものが零れ落ち、空っぽになった感覚に包まれた。
 ジギルが探していたのは魔薬の入った小瓶だった。
 あのとき、手に握ってから、どうなったか記憶にない。普通に考えて落としたのだろうし、もし咄嗟にポケットにしまっていたとしても服と一緒に破棄されたのだと思う。
 完全に、すべてを失った。
 たった一つの可能性だった。無力なくせに大罪を犯した自分が、もしかするとあれで誰かが救えるかもしれないと信じた。しかし、それも無くなった。これは啓示だ。エミーに利用されるだけの小物でしかなかった。役目は終わったのだと「神」に告げられたのだ。
 そんな自分をなぜ生かしたのか――きっと、とジギルは思う。これから死よりも辛い何かがあるのかもしれない。それでいい。今までが間違っていたのだから。振り返れば幸せだと思える時間もあった。それは神の悪戯でできた歪みの中で見た、僅かな幻想だった。夢は終わったのだ。
 話しかけても反応しないジギルに飽きたように、カロンが「おい」と声をかけてきた。
「戻るぞ」ジギルの隣に屈み、半ば無理やり肩を担ぐ。「置いて行ってもいいが、ユリナが許さないからな。俺たちは忙しいんだ。お前は大人しく寝ていろ」
「あれ? 珍しく優しいね」とユリナ。
「俺はいつも優しい」
「私にだけでしょ?」
「そうだ。こんなボロ雑巾のために可愛いユリナの手を煩わせるわけにはいかないからな」
「あはは。余計なお世話だよ。でも、ありがとね」
「ふん。ボロ、怪我を利用してユリナの体に触ろうなんてふざけた考えはやめろ。俺には分かってるんだからな」
 ジギルにはこの二人が恋人に見えた。美男美女でお似合いだ。だがそれよりも、この状況でよくそんな能天気かつ見当違いな会話ができるものだと思う。下らない。どうせあと少しの付き合いだ。好きに言えばいいと、ジギルは口を閉ざした。



 ジギルの休ませたあと部屋を出たユリナとカロンは外の木陰で向き合った。
「……ボロは本当に記憶喪失なのか?」
 カロンが声を落として訊ねると、ユリナは笑顔のまま答える。
「違うと思う」
「どうしてそう思う?」
「治療してるんだもん。どこにどういうダメージがあるか、私には分かるよ」
「だったらどうして名前くらい聞かないんだ」
「言わないから仕方ないでしょ。言いたくないんだよ、きっと」
「何か隠してるんじゃないのか」
「そういう感じじゃないな。ボロからは生きる意志が感じられないんだ。でも、私はそれも治したい」
 カロンは呆れたようにため息をつく。ユリナは昔からこうだった。だからカロンが傍にいて見守る必要があると思う。
「あいつ、一瞬だけ、何かを探すしぐさをした」
 カロンは言いながら、ポケットから何かを取り出す。
「これじゃないのか?」
 それは、まさにジギルが探していた魔薬の入っていた小瓶だった。
「ボロが倒れていた近くに落ちていた。あそこは未開の森だ。偶然、人工物が近くに落ちているなんて考えにくい」
「だったらどうして使わなかったのかな?」
 二人には、この中身が何かも分かっていた。
 ボロが危険な状況にあったのは確かだ。彼は魔士ではない。それでも、死ぬくらいならいっそ小瓶の中身を飲んで生存の可能性を高めることはできたはずだと考える。だが今のジギルに生きる意志がない。ならばなぜこれを持っているのか、二人には想像も及ばなかった。
「なんか変なもの持ち込んだんじゃないのか」
「そんなことないよ。ただのボロ雑巾じゃん」
「ここに集まった奴らは、皆何かしら怒りや恨みを抱いてる。迫害してきたマーベラスや魔法使いに、世界を滅ぼしたスカルディアに、それぞれだ。俺たちがいるから再起を目標に団結してるが、奴らのストレスはちょっとした刺激で爆発するかもしれない」
「その刺激が、ボロだっていうの? 名前も言わないような廃人よ?」
「そのくらいの爆弾を抱えている、と俺は思う」
「……そっか」
 ユリナは微笑んでいたが、本当はカロンの言う意味が分かっていた。
「でも、見殺しにはできない。カロンもでしょ?」
「俺はできる」
 彼は嘘を言っている。ユリナはいつものことだと、笑った。
「ま、元気になったら何か変わるよ」
「もしボロが敵だったら?」
「何を守るかによるかな」
 カロンは再びため息をついた。
「俺がボロを警戒する。だからお前は、好きにすればいい」
「うん。ありがと」







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