SeparateMoon
15
ジギルが入った大部屋には十数人の男性がたむろしていた。ここは男性専用で、女性は別の部屋に分けられているようだ。
年齢は様々だが、元気で清潔そうな者はいなかった。薄汚れた布団やシーツが乱雑に広げられており、まだ横になっている者もいる。
埃が舞い、匂いも酷い。仮住まいどころか、浮浪者の集まりである。
ジギルは青ざめる。
(……こんなところで、毎日を過ごすのか?)
洛陽線も貧しかったが、誰も人間らしく生活していた。何よりも、自分用の一人部屋があった。そこは自分の欲しいもので囲まれており、狭くても散らかっていても居心地がよかった。
ドアの前で突っ立っていると、数人の男がジギルに目線を向けた。ジギルは怯えた小動物のように肩を竦め、部屋の隅に移動した。
「おい」一人の男が声をかけてきた。「新人か。どこから来た」
ジギルは目を合わせないように顔を背け、黙って部屋の角に背をつける。そのままズルズルと腰を落とし、膝を抱えて座り込んだ。
「返事くらいしろよ」男は舌打ちし、近寄ってくる。「もうすぐ朝食だ。そのあとは全員で労働。ガキだろうが働かざるもの食うべからずだ。ちゃんと言うこと聞けよ」
ジギルは完全に塞ぎ込んでおり、彼の言葉は耳に入っていなかった。男はやはり返事をしないジギルに苛立ち、手を伸ばした。この男は威圧的な性格で乱暴者だった。数人の男が固唾を飲む。
ジギルに手が届く直前、カロンの声が響いた。
「全員起きろ!」
男たちははっと顔を上げる。寝ていた者も体を起こした。
間一髪だったことを知らないまま、ジギルはその声にも反応しなかった。
「さっさと出てこい」
男だちは素直に言うことを聞いて部屋を出ていった。先ほどの乱暴者も、つまらなそうな顔で従う。
カロンは部屋の隅で小さくなっているジギルに気づき、「おい」と大声を出す。だが、ジギルはピクリとも動かなかった。
「ボロ! 気絶してんのか。起きろ」
カロンは早足でジギルに寄り、片膝をついて彼を頭を軽く叩いた。ジギルは動かないまま、か細い声を漏らす。
「……一人にしてくれ。お願いだから」
「はあ? 聞こえねえよ」
「……ほっといてくれよ。俺に、近づくな。頼む」
カロンは怪訝な目でジギルの後頭部を見つめた。彼もいろんな人間を見てきた。おそらくジギルは、精神的な病のようだと理解した。
「なんだお前。重症だったときより重症じゃないか」
カロンは声を落とし、口の端を上げた。
「食事も休憩も就寝も時間が決まってる。お前も合わせろ」
無理だ、とジギルは心の中で叫んだ。
「飯の時間が過ぎたら食いはぐれるだけだ。好きにしろ」
カロンは呆れたように言い捨てて立ち去った。
やっと一人になった。ジギルは吐き気がこみ上げ、うっと唸った。
思えば、洛陽線では先生と呼ばれ、革命軍ではリーダーとしての立場があった。文句ばかり言っていたが、優遇されていたことを今更ながら痛感する。
今はただのボロ雑巾だ。これが本来の自分の姿。それでも、無理だと強く思う。そうだ、無理なんだ。今にも発狂しそうだ。
もし、ここでまた人を指揮すればそれなりの待遇を受けるのだろうか――そうだとしても、その気力が沸いてこない。何もしたくない。昔は意識せず自然にそうしていた。しようと思ってできるものではないのだ。
その自然な行動が、レオンの癪に障り、神経を逆撫でしていた。
(だったら、もう俺には英雄の本分だの、素質だのはなくなったってことなのか……)
そうか。それでいい。ここでボロ雑巾として、呼吸が止まる時間を待つ。誰も知らないうちに朽ち果てて地面に溶ける。それが本当の自分なのだ。
そう思うのに、胸のあたりで熱い鉛がうねるような不快感を抱く。
強く目を閉じると、あの青い目がブラッシュバックした。一瞬で人を消し去る力を宿した、世界最強の魔法使いの宝石のような冷たい目を。
怖い――計り知れないほどの強く深い感情が自分に向けられたあの瞬間は、思い出すだけで身震いする。ジギルは頭を振って記憶の映像をかき消す。
もしかしたら今もあの視線は自分を見ているのかもしれないと思うと、泣き喚きたくなるほどの衝動に駆られる。
ジギルは起きているのも嫌になり、体を倒して横になった。窓の向こうでは人々の活動する声や音がするが、それも耳に入らない。
しばらくしてまたドアを開ける音がした。ユリナが様子を見に来たのだ。部屋の隅で芋虫のように転がっているジギルを見つけ、驚いて駆けつけた。隣に腰を下ろし、体を体を揺さぶる。
「ボロ、何やってんの?」
ジギルはもう死体のようだった。
「確かに重症だね」カロンから聞いていたユリナは呆れ、彼の背中を数回叩く。「分かったよ。まだ個室空いてるから、次が来るまでそこにいていいよ」
ジギルはそう言われても、今は考えることすら放棄していた。
「あーもう。起きてるんでしょ?」ユリナはジギルの頭を叩き。「私は他にやることあるから、自分で歩いて行ってね。とにかく、元気出して」
ユリナも退室し、次第に人の声も減ってきた頃、ジギルはふっと体の力を抜いた。このままここにいたらまた人が戻ってくると思い、重い腰を上げてそろそろと扉に向かう。
外を覗くと近くに人はいない。ほっと胸を撫で下ろして建物を出た。
ジギルは個室にには向かわず、建物の裏の森に入っていった。木漏れ日と枝の隙間を、小さな鳥が駆け抜けていく。森の中は人間の足跡が残っているが、今は人の気配はなさそうだと思い、フラフラと奥へ進んで行った。
行く宛てもない。戻る気にもなれない。いつの間にか太陽が頭上に昇っていた。このまま、倒れるまで歩き続けるかと、ジギルは木々の隙間の草を踏み続けた。
森が深くなったかと思うと、だんだん明るくなっていく。もうすぐ森が開ける。ジギルの思惑通り、眼前に眩むほどの青空が広がった。
そこは小高い丘が削れて崖になっており、まっすぐ進むと行き止まりとなる。足元は短い草が生い茂りいくつかの切り株があった。明らかに人の手で切り倒されているのだが、所々苔蒸しており長年雨ざらしだったことが伺える。おそらく地面が崩れる前はなだらかな平地で人が行き来しており、そのときに切り倒されたのだろうと思う。
崖の先も自然が続いていた。平地の先は山が連なっている。
途方に暮れるジギルは切り株に腰を下ろした。少し、肩の傷口が痛みを含んだ。痛みは生きていることを証明する。感情なんてなければ、周囲の木々と何も変わらない。ここにある自然のように、ただそこにあるだけの生命になれれば楽なのに。ジギルは背を丸め、頭を垂れた。
日は沈み空がすっかり暗くなってもジギルはそのままの状態でいた。起きていたのか、寝ていたのかも覚えていない。透き通った明るい空は色を変え、今は深い闇を落としている。夜空には真っ黒な空間を埋め尽くしそうなほどの星の粒が散りばめられていた。
背後から人の気配が近づいてくる。ジギルは数回、瞬きをした。
「あっ、見つけた!」
その声はユリナだった。まだジギルは返事をしない。
「どこにもいないから探したんだよ」ユリナはジギルの前に回り込み、顔を覗き込んだ。「ずっと何も食べてないでしょ? 戻ろう」
確かに、ジギルは何も食べていないし、飲んでもいない。きっと体は空腹なのだろうが、食欲などまったくなかった。
「ずっとここに居たの? だったら個室で寝てればいいのに。ねえ……」
ユリナが口を噤んだ。これは思っていた以上に重症だ。俯いたままのジギルの前に屈み込み、彼の肩を両手で掴んだ。
ジギルは体を揺らし、口を開いた。
「……なんだよ」
「あ、動いた」
「触るな」
「傷の状態を見たいのと、魔法を使ったら少しは元気になるから、ちょっと我慢して」
「もういい。やめろ」ジギルはユリナの手を振りほどく。「もうお前たちのところには戻らない。ほっといてくれ」
ユリナから笑顔が消えた。静かに立ち上がり、隣の切り株に並んで腰を下ろした。
重苦しいほどの静寂が落ちてきた。だが、二人の髪や頬を撫で、草木を揺らす緩やかな風が時間の流れを教えてくれていた。
あまりに静かで、もうユリナが帰ったんじゃないかと錯覚したジギルが顔を上げる。隣を見ると、まだ彼女はそこにいた。視線に気づき、ユリナはにこりと微笑んだ。
――その瞬間、ジギルの胸が強く鼓動を打った。
息が苦しくなり慌てて彼女から顔を背けた。背中に汗が滲む。胸焼けがする。何かが、圧し掛かってくる。
様子のおかしいジギルに、ユリナは首を傾げた。
「どうしたの? 気分悪い?」
また近寄って手を伸ばそうとする彼女に、ジギルは必死で声を上げた。
「やめてくれ……」
――思い出したくない。
いいや、忘れてはいけないことだ。忘れてなんかいない。なのに、今まで記憶に帳を落として隠していた。
まともに向き合うと狂ってしまいそうだったから。あのときは選ぶ時間もなく役目を与えられた。だからまだその時ではないと、自ら目を反らしたのだ。
だけど、と思う。もういいのかもしれない。
すべてから逃げ出した。もう何もかも終わったのだ。この無力な手のひらから零れ落ちていった大切な命――掛けがえのない「家族」との決別をしなければいけない。
目と閉じると、脳裏に真っ赤な大輪の花が咲いた。
「…………!」
想像以上の痛みが胸を貫き、ジギルはすぐに目を見開き、跳ね上がって悲鳴を上げた。
「ちょっと……どうしたの?」
あまりに異常なジギルの行動に、さすがのユリナも怯んでいる。
ジギルは頭を抱えて震え出した。
「……俺のせいだ。俺が、殺したんだ」
肩を縮めていたユリナだったが、何かを察したように脱力した。
「知らない人間を殺しても、なんともなかった……あいつは知っていたんだ。知っていて、俺に家族を殺させた。俺が、弱かったから……どうせ革命は起きた。余計なことをしなければ、あんな最期じゃなかったかもしれない。俺が殺したんだ」
ユリナは立ち上がり、そっとジギルの前に屈んだ。
「大切な人が亡くなったんだね」優しい声で囁きかけた。「今まで、その悲しみを我慢していたの?」
「……我慢じゃない。逃げてたんだ」
「どうして?」
答えずに沈黙するジギルにため息をつき、ユリナは半ば強引に両手で彼の顔を持ち上げた。
ジギルは目を震わせ、奥歯をかちかちと鳴らせていた。
「まだ我慢してるね」間近で見つめるユリナの表情は真剣なものだった。「そのままだと、何も変わらないよ。言ったでしょ。死んだ人は喋らないの。君は黙ったらダメ。生きてるんだから」
ジギルの瞳が潤み、涙が零れた。一つ落ちると、堰が壊れたように後から後から溢れ出して止まらなくなった。
「償いが……できると思った。今度こそ、誰かを救えると思った。だからそれまでは考えないようにしていた……だけど、俺は逃げたんだ。怖かった。俺は……役立たずなんてものじゃない。大切な人を殺すことしかできない、悪魔なんだ」
ジギルは嗚咽と涙と、今まで閉じ込めていた思いを吐き出していった。
「そうだ、悪魔は俺だ。あいつじゃない。あいつは本物の魔法使いなんだから、人類を滅ぼそうと救おうと、自分の意志で決められる。でも俺は違う。弱くて、臆病で、間違うし、失敗もする。何も思い通りにできない。そもそも俺は生まれてくるべきじゃなかったんだ。役目なんか、あるわけがなかったんだ」
「……じゃあ、どうしてやめなかったの?」
ユリナの優しい声は、ジギルの心を締め付けた。人と目を合わせて話すことが苦手だったジギルだったが、今は、じっと彼女の目を見つめて釘付けになっていた。止まらない涙で息苦しく顔も強張っているというのに、不思議と心は柔らかくなっていく。
「……幸せ、だったんだと、思う」
本音を口に出すと、更に涙が溢れた。
「俺は自分のやりたいことを勝手にやっているだけだと思っていた。それだけで楽しかった。でも、それが生きる意味じゃなかった。幸せなんて自覚したことはなかった。人の気持ちも、自分がしたことの結果も、やめたくなかったから、見ないようにしていた。責任なんか取りたくなかった。だから、いつでもやめられたはずなんだ。だけどやめなかった……本当は、誰かの期待に応えて……喜んでもらえるのが……嬉しかったんだ」
ジギルは涙で顔をグシャグシャにし、何度もしゃくり上げる。
「俺は、本当に最低だ……身勝手すぎて、自分でも嫌になる。期待に応えるどころか、不幸な結果にしかならなかった。やり直せる機会があったのに、逃げた。逃げるしかできなかった……」
ユリナはジギルの言葉が本音だと分かり、うんと頷いた。彼の顔を掴んでいた手を離したあと、そのまま力強く腕を首の後ろに回して抱き締めた。ジギルは驚いて真っ赤になった目を見開く。
「うん、そうだね」ユリナは彼の背中を軽く叩き。「君は最低だ」
その言葉に、ジギルの心臓が脈打った。痛くて、沁みる。なのに心地よかった。
これは否定ではなく、肯定だ。
「役立たずで、無責任で、どうしようもない人間だね。君のせいで亡くなった人も、君のみっともない姿を見て、きっと呆れているよ。どうしようもないね。亡くなった人には何もしてあげられないんだよ……だから、好きなだけ泣けばいいよ」 ずっと悪人だの善人だのと評価されてきたが、どれも答えには辿り着かなかった。
答えなんかなかったのだ。ジギルは最低で役立たずで、無責任で、どうしようもない人間。それが本当の自分――誰よりも受け入れられなかったのは自分自身だったことに気づく。
ジギルは唸るような声を漏らし、再び泣き出した。体中の水がなくなるんじゃないかと思うほど、涙が止まらなかった。
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