SeparateMoon



9






 緊張の一日が終わろうとしていた。
 藍色の空を眺めながらジギルは大きなため息をつく。眠ればまた朝が来るからだ。明日は、明後日はどうしようかと悩みは尽きない。今までは、すぐに解決はしなくても答えにつながる手段を探して見つけてきた。だが今回は違う。ジギルにとって初めての困難だった。人同士の蟠りだ。人の気持ちなど分からない、分かる必要はないと思い、面倒なことは避けてきた。しばらく放っておけばなんとかなってきた。相手の中で解決したのか、折り合いをつけたのかは知らない。今回も同じように放っておけばいいと何度も自分に言い聞かせたが、なぜか考えずにはいられなかった。まずはその理由を考えた。出た答えは、自分自身がレオンという人間へ興味を持っているのだと考えた。いい感情ではなかった。なぜ彼が自分に嫉妬心を抱くのか。それはどんな気持ちなのかを知りたいという好奇心を否めなかった。
(だけど……知ってどうする? なんの役に立つ? 知らないほうがいいんじゃないのか?)
 ジギルはもう一つため息をついて項垂れた。
 ただじっと呼吸をしているだけでも時間は過ぎていく。
 ゆっくりと空は閉ざされ、すべてを包み込む太陽の光の代わりに、闇に一筋の道を標す月が目を覚ます。
 改めて空を見上げると大きな満月がジギルの視界に飛び込んできた。まだ時間が早いため、落ちてしまいそうなほど大きく見えた。
(そういえば、魔力は月に影響を受けるんだったな)
 魔薬も満月の夜は銀の粉を帯びるほど活性化していた。なんとなく、ずっとポケットに入れっぱなしの小さな瓶を取り出した。やはり、中の粉末になった魔薬でさえ、ガラスを通して魔力が増しているのが伝わってきた。
(月の光は人体にも影響を与える。魔力を操る魔法使いならなおさらだ……俺にはよく分かんねえけど)
 とジギルは心の中で呟くが、エミーや他の魔法使いが近くにいるときから自分も無意識に影響を受けていると感じていた。不思議と、月の光を浴びると体の内側に微熱を孕むような違和感を抱くからだ。
(魔法使いはもっと強い感覚なんだろうな。俺には一生分からねえだろうけど)
 しかし彼らがそういう体質なのだということは理解していかなければいけない。これから、もっと魔法使いのことを、知りたくなくても知っていくことになる。ジギルは自分がこんなふうになるなんて想像したこともなかった。
 自分の意志で人と関わらなければいけないと思うと、なぜか孤独を感じた。
 答えのない疑問に突き当たったジギルは、考えても無駄だと何度も自分に言い聞かせた。それでも靄が晴れず、人のいないほうへ歩き出した。ここからでは見えないが、あの淡い光の飛び交う様子を思い浮かべていた。自然とそこに向かったのは、人に会いたくなかったからか、誰かと話したかったからなのか、今となっては本人にも分からなかった。



 王の墓場に着いたころには月は高く昇り、見慣れた満月の姿に戻っていた。
 空には星が瞬き、地上では死者の魂が浮遊している。ジギルはその騒がしくも静かな空間の片隅に、体を小さくして座り込んだ。前方に件の広場があり、瓦礫に紛れて蔦の塊が横たわっている。
(そういえば……この中にエミーの魂もあるんだろうか)
 そんなことを考えたあと、ふっと表情を緩めた。
(そんなわけないか……きっと死んだあとは生きているときより自由だ。あの女が墓になんか収まるわけがない)
 改めて、エミーだけが死に、自分が生きていることを不思議に思う。
 彼女は報いを受けた。人間の基準でいうと大罪だが、言葉を持たぬものと目に見えないものには悪や罪という概念はない。あったとしても、同じ基準だとは限らない。死んだあとにの魂に罰を与える者、罪の深さを裁く者なんて、そんな人間に都合のいい仕組みがあるとは思えなかった。そうだとしたら、自分への報復は生きることなのだろうか。まだ知らないことが多すぎる。答えがないと分かっていても死ぬまで向き合わなければいけないことが罰ならば、まだまだ長生きしそうだと気が遠くなる。
 ジギルはぼんやりと光の粒を目で追った。そうしているうちに、いくつかの魂が彼の頭上を何度も飛び交った。
 それらに何かを言おうとして少し背を伸ばす。なぜか声よりも先に、嗚咽がこみ上げた。そんな自分に驚いて咄嗟に片手で口を塞ぎ、顔を伏せて目頭の熱を必死で抑えた。
「……誰?」
 頭が真っ白になっているジギルに、知った声が聞こえた。先ほどまでの感情は掻き消え、慌てて顔を上げる。
「あら、あなたなの」アシュリーが瓦礫の壁の上から見下ろしていた。「珍しいわね。一人?」
 ジギルは満月に照らされた彼女の姿に目を見開いた。
 アシュリーは全身を真っ白なマントに包み、見たことのない高等魔法使いの装いで佇んでいたからだった。長く重厚な純白のそれは銀の光を帯びて輝いて見えた。動くと影ができる様子で、月光が反射していることが分かる。アシュリーは微笑みを浮かべて軽く地を蹴り、驚いて固まっているジギルの傍に着地した。
「お邪魔かしら?」
 ジギルは息を飲み、立ち上がってアシュリーから一歩離れた。
「お前、なんだよ……その恰好……」
「これ?」アシュリーは指先でマントの裾を揺らし。「マーベラスの魔法使いのマントよ――スターブロンの証」
「そ、それは、聞いたよ」ジギルは動揺を隠せない。「どうしてそれを羽織ってるんだ」
「もうスターブロンもマーベラスも、国さえなくなったのに?」アシュリーは微笑んだまま肩を竦めた。「そうよね。可笑しいわよね」
「お、可笑しいかどうか、俺は分からねえけど……それ、ずっと持ってたのか?」
「いいえ。私のも仲間のも全部戦闘でなくなったわ。これは魔法で再現したものよ」
「なんのために……?」
 アシュリーは怯えるジギルに目を細め、慣れた仕草で一度マントを翻し姿勢を正した。頭上の満月と、彼女の周りを踊る光の玉を仰いだあと、肩の力を抜いた。
「話す必要もないと思ったけど……せっかくだから聞いてもらおうかな」
 敵意はまったく感じられない。そもそも自分がなぜ彼女を警戒しなければいけないのか、理由はとくにないことに気づいてジギルも緊張を解いた。
「いや、ちょっと待て」ジギルはいつもの調子に戻り。「なんで俺なんだよ。レオンとかヴェルトに話せよ」
「だって、いないじゃない」
「いるだろ」
「ここにはいない。たまたまあなたがここにいたから話そうと思ったの」
「はあ?」
 ジギルは嫌な予感がしたが、今聞かなければもう彼女が話す機会はないような気もする。同時に、知りたい気持ちも否定できなかった。
「分かったよ……」
「ありがとう……スターブロンのことは聞いてる?」
「まあ……簡単に」
「……スターブロンは魔力の枯れた老人ばかりでね、寝たきりの人だって珍しくなかった。私たちは最早マーベラスとも魔法使いとも名乗れないほど役立たずだった。誰にも必要とされない私たちは世界のあちこちに点在し、寿命を待つだけだった……そんなときだった。革命が始まって、力のない私たちにできることはなかった。ほとんどが逃げ惑うか無抵抗のまま死んでいった。そのことを気に掛ける人もいなかったけど、運がいいのか悪いのか、私を含めて九人のスターブロンが生き残った」
 そこまでを聞いて、ジギルはまさか他の八人も出てくるんじゃないかと疑い、そっと周囲を見回した。だが静寂のままで、光の玉だけが浮遊している。
「私たちの心残りはザイン様のことだけだった。他に役目はないし、もう居場所もないと分かったから。私たちの魔力も僅かで、九人を気遣いながらザイン様の元へ歩くことさえ無謀な状態だった。だけど、せめてザイン様の生死だけでも確認したかった。ザイン様がもうこの世を旅立たれたのであれば私たちも喜んでお供することができる。それほど光栄なことはない。だから話し合い、一人に八人の残りの魔力を集めて動けるようにしたの……それが、私」
 アシュリーは満月の光を浴びて幸せそうな表情を浮かべていた。ジギルは彼女の話を頭の中でまとめながら状況を把握していく。相変わらず魔法使いの思想は理解できないが、アシュリーが強い決意と覚悟を持ってここに来たのだということは分かった。重い話だと思う。よく見ると、先ほどから彼女の周囲を浮遊しているいくつかの魂が不自然な動きをしているのが分かる。ほとんどは風に揺れる綿毛のような気まぐれな動きをしているにも関わらず、そのいくつかはまるで意志があるかのようにアシュリーの周りに集まっている。その数は、八つだった。
「私がスターブロンなのに強い魔力を持っているのは仲間の八人のおかげなの」
「……その八人って、死んだのか? お前に魔力を渡すために」
「簡単に言うと、そうね。でも私はただの入れ物のようなものよ。九人のうち一番怪我の少ない者が私だったってだけ。私は一人に見えるけど、本当は九人の魔法使いなの」
「それで、そこまでして何が目的なんだよ」
「言ったでしょう? ザイン様に会いたいの」
「……もう、死んでいてもか?」
 ジギルの辛辣な言葉にアシュリーは笑みを消した。
「そうよ」
「せっかく生き残ったのに、わざわざ後追いするのか」
「そうよ。私たちの命はザイン様に捧げると誓ったのだから」
「ザインもそれを望んでいるのか」
「望む望まないの次元の話ではないの。私たちはそういうものなの。だけどザイン様が御崩御なされたという確信が必要なの。だから探しているのよ」
「だったらどうしてレオンに聞かないんだ」
 アシュリーの目尻がピクリと揺れた。
「なぜレオン様がご存知だと思うの?」
「白々しい。親子だぞ。一番近い存在なんだ。レオンがその場にいなかったとしても何か知ってるかもしれないと思うのが自然だろ」
「私たちはザイン様の従者。ザイン様とさえ心が繋がればいいの。レオン様のお手を煩わせる必要はない」
「じゃあもし、レオンが手を掛けていたとしたらどうするつもりだ?」
「……どうって?」
「お前にとってレオンはザインの息子でもなんでもないんだろ? 気遣いや配慮する義理なんかない一介の魔法使いでしかないってことだと、俺にはそう聞こえた。もしレオンがザインの仇だと分かったら報復するつもりなのか」
「そんなことは考えていない。私たちはただ、真実を知りたいだけ」
「知ってどうする。レオンが語ろうとしないのは息子としての思いがあるからだろう。他人が首を突っ込むことじゃない」
「あなたに何が分かるの!」アシュリーはとうとう声を荒げる。「魔法大国がどれだけの神聖な力で、どれだけの尊い犠牲の上に建立されたのか、私たちはすべてを見てきた。ずっとずっと長い時間をかけて、数多の生と死を繰り返しながら、移り変わっていくもののすべてをこの目で見てきた。スターブロンはザイン様と共に命を懸けて、守りたいもののために、この身を削って守り抜いてきた。時代が変わってもザイン様が築き上げた土台と背景を冒涜することは許されない。何も知らず、私たちの血の染みついた大地のどこかに生まれて、呑気に呼吸をしているだけのあなたに、私たちの使命の重みが理解できるのか!」
 ジギルはアシュリーの怒りに圧倒された。全身に痺れが走り、血の気が引いていく。
 彼女の言うとおりだと思う。ザインとスターブロンの魔法使いたちがどれだけの長い時間と犠牲を積み上げてきたのか、想像もできないほど途方もないことなのだろう。そのすべてを背負った、現時点で最古と言える魔法使いの獣のように威嚇してくる姿に、何の力も持たないジギルは足を竦ませた。
 今までも何度も魔法使いに恐怖を感じてきた。その中でもアシュリーは格別だった。あの穏やかでいつもぼんやり微笑んでいた姿をもう思い出せないほど。
 それでも、なぜかジギルは踏み止まった。
 話し合おう、話し合えると信じた。今までもそれができたからだ。ランドールの魔法使いは生まれ育った環境も思想も何もかもが違う。それでも話ができた。それで変わった者もいた。アシュリーも、きっと何かの縁があって自分に本音を伝えているはず。きっと自分の言葉も聞いてくれると信じた。
「俺には、分からないよ。そんな昔のことも、お前たちの信仰心も……でも、それだけの魔力を持ってここに来たんだ。自ら死ぬなんて馬鹿げてる。ただでさえ魔力は希少なものになったんだ。他にできることがあるだろう? なあ、レオンと向き合ってみろよ。長く生きてきたんだろ? もう少しだけ時間を使ってみて、新しい世界を見てみろよ。お前を必要として、感謝するやつがきっといるよ。その魔法を弱者のために使ったほうが、ザインも喜ぶんじゃないのか? お前が生き残ってくれてよかったって……」
「勝手なことを言うな!」
 再び怒鳴られ、ジギルは縮み上がった。
「軽々しく聖なる御名を口にするな。汚らわしい! ザイン様のお気持ちを代弁するなど、烏滸がましいにもほどがある!」
 ジギルは二の句が告げなかった。そのとおりだ。まさか自分がつまらない綺麗ごとで情に訴えかけるしかできないなんて、酷く惨めな気分に陥った。レオンでさえ叩けば多少は響いたというのに、アシュリーにはつけ込む隙が見つからないのだ。彼女はエミーともヴェルトとも違う。美しく若々しい見た目のせいで惑わされるが、本来アシュリーは老人であり、普通の人間は若さと経験が反比例するものだが、彼女は両方を持ち合わせている状態である。ジギルは初めて年功への畏怖を感じていた。圧倒的な知識と経験、それを基盤とした確固たる自信と信念は、まるで完璧な盾と矛だ。どれだけの悪知恵や小細工を用いても彼女には通用しない。ヴェルトが怖がっていた理由がやっと分かった。
 ジギルは初めて無理だと思った。アシュリーの持つ情報量は、本の虫でしかないジギルとは歴然の差がある。説得は諦めよう。
 だけど、これだけは確かめておく必要があった。
「わ、悪かった。もう何も言わない……ところで、そんな恰好で何をするつもりなんだ?」
 一歩引いて声を落とすジギルの様子に、アシュリーも敵意を消して怒りの表情を和らげた。それでも、あの微笑みは浮かべなかった。
「今日は満月。魔力が高まる日……ザイン様の御霊をお探しする」
「ここで? 魔法でか?」
「そう。ここにご遺体がある可能性が高いのなら語り掛け、返事がなければどこまででも行ってお探しする」
「どこまででもって?」
「死者のいる場所でも、それよりもっと遠い、どこかにある異空間でも、どこまでも」
「そんなことができるのか?」
「魔力が尽きるまででも、やるだけよ」
 どうやら前例はないようだ。そんなことをして何になるのか、やはりジギルには理解できない。だがもう彼女を止めることはできない。
「なあ、もう一つ聞かせてくれ」
 レオンに危害は加えないのか――ジギルはそれだけでも確かめたかった。加えないというなら、口先だけでもいいから約束させたかった。それが、この場に居合わせた自分の役目だと感じていたから。
 そのとき、墓場に不穏を運んでくる不届き者がもう一人、姿を見せた。
「――そんなことをしても無駄ですよ」
 ジギルとアシュリーは同時に同じところに顔を向ける。
 背後の瓦礫の上にレオンが静かに立ち、冷たい瞳で二人を見下ろしていたのだった。

 この満月の夜はまだまだ終わらないようだ――ジギルは頭の片隅で、無意識にそんなことを呟いていた。







<< Back || TOP || Next >>



Copyright(c) RoicoeuR. All rights reserved.