20




 樹燐は真っ青になり、実珂以上に震え出した。
「実珂……どうして?」
 実珂は黙って、樹燐を抱く腕に力を入れた。樹燐より幼い子供のように、声を漏らして泣き続けている。
 庭からは、緊迫した殺気が漂ってくる。かなりの人数がいることが分かる。おそらく、蒼雫に勘付かれた日から、毎夜同じ状態だったのだろう。深夜に起きることも、庭を見ることもなかったため、気づかなかっただけで。
 実珂の怪我の原因も、泣いている理由も分かった。
 いつか終わる日が来るかもしれないと考えたことはあった。しかし、もしばれたとしても問い詰められることから始まるものだと思っていた。
 まさかなんの話も聞かずに、才戯を待ち構えて捕えようとするなんて。
 樹燐は実珂の腕の中で、数回首を横に振った。
「……来ないで」
 実珂は彼女の言葉が誰に向けられているかを悟り、また腕に力を入れた。
「来ないで!」
 樹燐の切な叫びは、虚しく掻き消えた。
 山査子の木が揺れる。
 樹燐には、才戯が来たと分かった。しかしすぐには出てこない。
 才戯は木の陰から庭を覗き、樹燐だけではなく実珂までいることに気付いて足を止めていたのだった。
 途端、樹燐の目から涙が溢れた。
「才戯、逃げて!」
 樹燐は声を張り上げた――が、もう間に合わなかった。
 周囲から、一斉に刀を構える鈍い音が響く。
 静寂を破って飛び出してきた警備兵が、才戯に向かって襲いかかっていった。
 才戯は蒼白しながらも、素早く木々を蹴って兵を避けた。
「なんだよ、これは……!」
 背後は完全に封じられており、逃げ場はなかった。才戯は庭に飛び降り、実珂に捕まえられている樹燐に目を向ける。
「才戯、早く逃げて。逃げて、お願い!」
 樹燐は暴れ出すが、実珂は歯を食いしばって離そうとしなかった。
「実珂、離して!」
「ダメです。樹燐様。このあとのことは、すべて、蒼雫様がお決めになられます。それまで、ここに居てください」
「嫌……! 才戯、早く逃げて!」
 才戯は警備兵に詰め寄られる中、目を見開いて茫然としてしまった。
 どうやら、見つかってしまったようだ。しかも逃げられそうにない。
 術を解いて家に戻りたくても、人に見られてしまったため、もうなんの力も作用しなかった。
 兵はこれ以上待たず、再び才戯に襲いかかる。我に返った才戯はまた飛び上がって交わすが、屋根から錘のついた網が降ってくる。
 樹燐は実珂に無理やり室内に連れていかれ、そのあいだも泣き喚き続けていた。
 才戯は足元にいた兵の顔を蹴り上げ、刀を奪い取る。その刀で網を引き裂き、うまく地面に着地した。
 ただの子供だと思っていた兵が、思った以上に戦い慣れている才戯に警戒心を強めていく。
 才戯はケンカに自信があったが、さすがにこの場とこの数では逃げ切れるとは思わなかった。
「……まあ、ばれたもんはしょうがないか」
 才戯は諦めながらも、できるところまで抵抗することにする。
 兵が殺すつもりはないことだけは分かる。捕まえるのが目的なのだろう。殺す気で来られないだけマシだと考えながら、かかってきた兵を踏み台にして屋根に飛び上がり、人数の少ない場所を探した。
 庭を囲んでいた兵は才戯を追っていく。一人が刀をおろし、縁側から樹燐と実珂に声をかけた。
「お怪我はありませんか」
 樹燐は実珂の腕の中でつっぷして泣いており、とても話ができる状態ではなかった。実珂が涙でぬれた顔で、兵に返事をする。
「大丈夫です。早く、侵入者を追ってください」
「護衛のために、数人、残します」
「いいえ。結構です」
「ですが……」
「樹燐様には私がついていますから、結構です。行ってください」
 みんなここから出ていけ、ということだった。危険が去るまで護衛する義務があるが、灯華仙では女の地位が高い。兵は仕方なさそうに引っ込み、見張りは庭の向う、二人に見えない場所に置くことにした。


 静まり返っていた灯華仙全体に、次々と灯りが灯っていく。
 才戯は身軽さを利用して逃げ回っていたが、次第に追い詰められていることを感じ取っていた。
 兵の刀を弾き返し、屋根から降りて近くにあった窓を破って室内に侵入する。
 柱や天上は細かい細工で飾り立てられ、広く、明るい廊下だった。前にも後ろにも兵がいた。窓の外からも兵の足音がする。しまった、と才戯は汗を流す。どちらが城の出口か分からないが、才戯はまっすぐに走った。
 兵がどっと押し寄せ、才戯から刀を取り上げて数人で手足を床に押し付けた。
「くそ……離せ!」
 才戯は最後の悪あがきをしてみるが、もう完全に捕えられている。
 一瞬、兵の動きが止まった。才戯も足掻くのをやめて、床に押し付けられたまま顔を上げた。
 廊下の先に、一人の女性が立っていた。才戯を押さえている兵以外が、武器を降ろして彼女に頭を下げていく。
 どうやら、この城の主のようだった。つまり、と才戯は思う。
 彼女が、樹燐の母親だと、すぐに分かった。
 蒼雫は無表情で、静かに才戯に近づいた。手前で立ち止まり、じっと才戯を見下ろす。
 冷たい冷たい目の奥には、明らかな怒りの炎が灯っていた。
 蒼雫は膝を折り、才戯の顔を見つめる。
「あら……どこかで見たことがありますね」蒼雫は歪んだ笑顔を浮かべた。「その角……確か、永霞のご子息、だったかしら」
 才戯は気まずいながらも、強がって蒼雫を睨み付けていた。
「あなた……私の娘に、会っていたの?」
 才戯は返事をせず、つんと顔を逸らす。兵がぐっと力を入れて才戯を床に押し付けると、才戯はうめき声をあげた。
 蒼雫は片手の手のひらを向け、兵を制止する。兵は戸惑いながら、才戯から手を離して一歩下がり、直立した。
 才戯が上半身を起こしたとき、蒼雫は今までの優雅な仕草からは想像もできないほど乱暴に、才戯の胸倉を掴んで立ち上がった。才戯の首が締まり、足が宙に浮く。
「答えなさい」
 息が詰まり才戯の顔が紅潮する。蒼雫は彼の様子に眉一つ動かさなかった。
「答えなさい。樹燐に会っていたの?」
「そ、そうだ」
 才戯はそう言うのが精いっぱいだった。そして、蒼雫にとって、その一言で十分だった。
 蒼雫は突如、目の前にある才戯の顔に息を吹きかけた。才戯は一瞬にして目が眩み、意識が遠のいていく。
 力が抜け、死体のようにだらりと手足が下がる。
 蒼雫は白目を剥いた才戯を更に持ち上げ、廊下の端にあった大きな壺に向かって投げつけた。
 大人の身長ほどある壺は大きな音を立て、廊下にいた兵のすべてが体を揺らしてその場に固まる。
 才戯は既に気を失っていた。無抵抗なまま粉々に砕けた壺の上で傷だらけになって横たわり、じわりと頭から血を流した。
 ここにあった壺は蒼雫のお気に入りの高価な芸術品だった。埃がついていたり不用に触れただけで罰せられてきた。それを自らぶち壊す彼女の行為から、よほど頭にきていることが伝わる。ここに居るのは彼女が怒る理由も分かる者ばかりで、才戯の味方は一人もいなかった。
 蒼雫は涼しい顔になり、近くにいた兵に命令する。
「永霞のところへ送り返してあげて」
「は。少年の怪我の治療は……」
「必要ありません」さっと踵を返し。「急がないと手遅れになりますよ」
 兵は頭を下げ、廊下の先に消えていく蒼雫を見送った。


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 丑三つ時、永霞の屋敷は突然の来客に騒がしくなっていた。
 門番からの報せで那智は起こされ、目を擦りながら話を聞く。
「え? なんですって?」
 寝ぼけているからではなく、門番の言っていることがあまりに突拍子がなく、すぐに理解できなかった。
「才戯様が? とうかせん? どういうことですか?」
 とりあえず見ないことには話にならない。那智は上着を羽織って玄関に向かった。
 そこには、普通はこんな時間にお目にかかることはできないであろう、きれいに着飾った従者が数人、立ち並んでいた。前方に小柄な女性、後方には男性が整列し、その後ろには黒塗りの牛車が止まっている。先頭の女性が那智に一礼する。
「夜分遅くに失礼いたします。灯華仙より、蒼雫様からお届け物でございます」
 丁寧に伝えたあと、後方から男性が才戯を抱えて前に出てきた。那智はすっかり目が覚め、傷だらけでぐったりしている才戯を見て青ざめた。
「才戯様! 一体、これは何事ですか!」
 混乱しながら才戯を受け取り抱きかかえる那智に、女性は冷静に続けた。
「蒼雫様から、お子様を届けるようにと命ぜられただけですので、それ以上は分かりかねます」
「どういうことですか?」那智は融通の利かない女性の態度に苛立ちを覚えた。「才戯様は部屋で就寝されていたはずです。どうしてこんな傷を負われているのですか? しかもこんな時間に……」
「分かりかねます」
「灯華仙なんてあんな離れた場所と、才戯様が何の関係があるんですか。永霞様だってほとんど関わりを持っていらっしゃらないのに」
「分かりかねます」
 那智はむっとするが、おそらくこれ以上は話してもムダだと思う。才戯の容態も確認しなければいけない。時間も時間だし、揉めごとは避けたかった。那智は渋々従者に一礼して、門を閉めた。

 永霞も騒ぎを聞きつけて目を覚ましていた。
 玄関で待っていた彼女は、傷ついた才戯を抱えてきた那智を見て驚愕した。
「才戯! どういうことだ。一体何があったのだ」
「分かりません。灯華仙の使いの方から傷ついた才戯様を渡されただけで、何も説明してくださらないんです」
「灯華仙……?」永霞は目を吊り上げた。「この傷は、まさか蒼雫の仕業なのか!」
「永霞様、それよりも才戯様の怪我の治療を」
 永霞は急いで才戯を彼の部屋に運んだ。

 怪我は大したことはなかった。那智が湿らせた手ぬぐいで才戯の額を拭っている。
「一体どういうことなのだ」
「分かりません……才戯様が目を覚まされるのを待つしかありませんね」
「才戯はここで、いつも通りに眠ったのだろう? どうして灯華仙から連れて来られるのだ」
「はい。才戯様が灯りを消して床に入るところまでは確認しています。いつもそうしてます。何も変わったことはありませんでした」
 永霞は深く息を吐き、頭を抱える。
「隣近所ならまだしも、どうして灯華仙なのだ? 夢でも見ているのだろうか」
「夢ではないと思います。でも、なぜ灯華仙の使いの方は何も説明してくださらなかったのでしょう」
「…………」
「せめて才戯様の意識が戻れば……」
 那智はそう言いながら、心配そうに手ぬぐいで才戯の頬を撫でる。
 突然、永霞は那智を押しのけて才戯に顔を近づけた。呼吸を確かめたあと、胸に耳を当てて心拍数を聞く。
「どうなさいました?」
 那智が覗き込むと、永霞の顔が強張っていた。
「……才戯の息から、香の匂いがする」
「え?」
 永霞は額に流れる汗を拭った。
「才戯は……このままだと、二度と、目を覚まさないだろう」
 那智は耳を疑った。
「え……どういうことですか」
「今は呼吸も心臓も問題はない。だが、ずっと意識不明のまま、衰弱し、いずれ、死に至る……」
 那智は少しの間のあと、悲鳴に近い声を上げた。
「う、嘘でしょう? どうしてですか? どうして才戯様がそんな目に合わなければいけないのですか!」
 永霞は膝の上で拳を握り、「分からない」と呟く。本当は腹の中で怒りが渦巻いていたのだが、あまりに不可解で、必死で感情を抑えて考えた。いくら蒼雫でも、何の理由もなく他人の子供を命の危険に晒し、こんな宣戦布告のような真似をするとは思えない。
 才戯は強力な呪いをかけられ意識不明で、起こす手段は、ここにはない。理由が必ずある。それを知るためには――。
「そうか……これは私に、蒼雫のところへ足を運び、頭を下げて教えを請え、ということだな」
 那智は不安で手が震え、眠り続けている才戯の身を案じた。永霞の言うことが本当なら、才戯のためにそうして欲しかった。きっと永霞ならできることはすると思うが、那智からそうしてくれと言える立場ではなく、言葉を失っていた。
 永霞は肩を怒らせ、血が噴き出しそうなほど奥歯を噛む。
 だが悔しさを飲み込み、息子のために断腸の思いで肚を決めた。
「那智、お前も来なさい」
 永霞は身支度するために立ち上がった。
「は、はい、もちろんです」
「では、急いで出かける準備を」
「え、でも、夜が明けてからのほうが……」
「今すぐだ。早くしなさい」
 那智は息を飲んで、言われるとおりにした。




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