鎖真が地獄を飛び出してから三日ほどが過ぎていた。
 それまでずっとビクビクして過ごしていた音耶だったのだが、地獄に苦情が届くことはなかった。
 現在、音耶は自室で書類の整理をしながら、先ほど旅から戻ってきた父親と向かい合って話をしている。
 もう音耶は慣れ始めていた。引退した父は雑用程度の手伝いしかしないつもりなのだと、半場諦めていたのだった。
 相変わらず疲れた様子の音耶に、父は低い声で伝えた。
「争奪戦は、もう終わったらしい」
 先代である父親も争奪戦のことを耳にしていた。しかしすぐには駆けつけずに騒動が終わってから戻った様子から、巻き込まれたくなかったという意志が伺える。
「……え? そうなんですか?」
 かなり気になってはいたのだが、もう結果が出るのを待つしかないと腹を括っていた音耶は、思ったより早い収束に肩を落とした。
「あと五人で決着がつくというところで、鎖真が飛び入り参加したらしく、それは大騒ぎになったそうだ」
 ――やはり鎖真は参加したのだと、音耶は落胆した。もしかしたら考え直して止めてくれるんじゃないかという期待はムダだったようである。
 それよりも、結果が気になった。もしも鎖真と葉鷲実が結婚するのなら他人事ではない。
「ど、どうなったんでしょうか」
「……もちろん、鎖真の圧勝だ」父はため息を漏らす。「当然だ。彼は地獄の鬼と同等の力があるのだからな」
 すべてが樹燐と玲紗の思い通りになった、と、音耶はそう思い、息を飲んだ。
「それじゃあ、その、葉鷲実様は、鎖真と……?」
 父は大きな体を揺らし、もう一つ息を吐く。
「もしそうなら、ここに真っ先に通達があるだろう」
「え……?」
 そうだ、と音耶は背を伸ばした。確かに、地獄に所属する鎖真の婚礼が決まったのなら、噂や世間話ではなく、正式な大典を行うとして統治者である自分に知らせがくるはずだ。
「え、あ、そう、ですよね。え? ということは、二人は結婚に至らなかったということですか?」
「そうだ」
 はっきりと言う父の言葉に、音耶は安心よりも混乱が先立った。
「どうしてですか? だって、争奪戦で勝ち抜いた者が葉鷲実様と結婚できるのではなかったのですか?」
「それはな、正しい情報ではなかったのだよ」
 目を丸くしている音耶に、父は暗い表情で説明した。
 天女が出した条件は、争奪戦を勝ち抜いた者たった一人に、葉鷲実に「結婚を申し込む権利」を与える、ということだった。逆上せあがった男たちはどうせまともに話を聞きはしないだろうと高を括り、発表の場で天女はわざと言い間違え、そして文書にのみ正しく記述して帝に提出していたのだった。幸か不幸か、その単純な小細工に気づいた者はほとんどいなかったというのが事実なのである。
「……えっと」音耶は冷静に意味を考え。「じゃあ、勝ち抜いたのは鎖真で、求婚したけど、成立しなかった、ということ、ですか?」
 父は黙って、重く頷いた。
 喜びの気持ちなど欠片もなかった。あまりにも気の毒としか思えない。派手に登場して天上を散々騒がせたあと、大勢に囲まれた中で、自信満々に求婚しておきながらあっさりと断られたということなのだ。
 樹燐と玲紗の悪巧みも残酷だが、天女のほうが一枚上手だったようである。あの二人も今頃悔しがっているに違いないと思う。


 争奪戦の結果が出て、皆が見守る中、鎖真は蓮座から下りてきた葉鷲実に跪いて求婚の言葉を述べた。彼が差し出した手に、汚れを知らない白い手が添えられる――その屈辱の瞬間を、負けた武神たちが涙を飲んで目に焼き付ける覚悟を持っていた。
 そこで、傍にいた天女が大きな声を出した。
「さあ、葉鷲実、お前の気持ちを正直に伝えなさい」
 会場中がざわついた。鎖真も何が起きたのか分からず、戸惑っていた。
「鎖真殿、あなたはめでたく『葉鷲実に求婚できる権利』を手に致しました」そう続ける天女の口調は厳しかった。「そしてあなたは今、ご自分の意志で葉鷲実に求婚いたしました。次は、葉鷲実が選ぶ番です」
 挑発的な言い草に、鎖真は浮かれた気持ちを一転させて汗を流した。
「……は?」
「まさかご存知なかったのですか? あなたが勝ち取ったものはあくまでも求婚の権利なのです。それから先は互いの気持ちを尊重して答えを出していただきます。夫婦とは愛し、尊敬し合う心と、生活と未来を二人で築き上げていくための能力と相性が合致して始めて成り立つもの。条件を満たしただけの肩書きでは政略結婚ということになります。そのような不健全な婚礼を、私たち天女が認めることはありません。もしもあなたが無理やり葉鷲実を強奪するようなことをなさるおつもりならば、私たちはどんな手を使っても不正な輩と戦わざるをえなくなります。もちろん、私たちは鎖真殿を信じております。あなたならばどんな答えも、男らしく、寛容に、受け入れてくださると」
 早口でそこまでを言い切る天女の迫力に圧され、鎖真は言葉を失っていた。それに、ちゃんと条件を確認しなかったのも事実であり、天女の言葉は正しく、言い返せる状態ではなかった。頭が真っ白になりつつ、葉鷲実に再度向き合う。
 あとは彼女だけが頼りだった。葉鷲実さえ鎖真の申し込みを甘受してくれれば、予定が狂うことはない。
 しかし葉鷲実は両手をすっと胸の前で併せ、静かに鎖真に頭を下げたのだった。
「申し訳ございません」
 しんとなった室内に、か細い声が響いた。
「私には、あなた様の妻になる資格はないのです――」


 そのときの鎖真の心痛の様子が想像できた。音耶は自分のことのように背中を丸めて苦い表情を浮かべる。
 なにがどうしてこうなったのか、冷静に整理してみると、最初から天女はそのつもりでいたことが伺える。よほど男たちの暴走に腹が立ったのかもしれないが、なにもここまで徹底して叩きのめす必要があったのかどうか、平和主義、というか、事なかれ主義の音耶には理解できなかった。
「あ、そうだ。もしかして」音耶はふとあることを思い出す。「依毘士は知ってたのかも……」
「そうだな。あの者は何事も譜面どおりに動くからな」
「だから平然としてたのか……」
 それなら早く言ってくれればいいのにと思うが、あのときの依毘士の態度はそれだけではないような気がした。
 彼は「止めなくていいのか」と言った。どうせほっといても葉鷲実の結婚が簡単に成立しないと分かっているなら、口数の少ない依毘士がわざわざ声に出すだろうか。
 無意識に音耶が唸っていると、父親が依毘士の心理を読み取り、説明した。
「おそらく、依毘士は全部知っていたんだろう」
「全部? 他に、何かあるんですか?」
「鎖真が断られた理由も、すべてだよ。彼は口に出さないだけでよく人を見ている。その観察力をもっと有効に使ってくれればいいのだが……」
 音耶は今更そんな愚痴を言う父に疑問を持たず、それよりも争奪戦の行方を知りたかった。
「葉鷲実様は、一体何を仰られたのですか?」
 父にとっては、ここからが重大なことだった。彼でさえ、まだ最善の解決方法を見出しておらずに落ち着けずにいる。


 差し出した手を引っ込めるのも忘れて固まっている鎖真の前で、葉鷲実は合掌したまま自分も膝を折って彼を見上げた。
「――私には、心に決めた方がいるのです」


 その一言で、恋愛などには疎い音耶でも酷い衝撃を受けた。
 なにもかも、端から「無駄な努力」にすぎなかったことを、終わるまで内部の者以外誰にも知らされることはなかったのだった。
 鎖真がまだ戻ってこない理由も察することができる。そもそも彼は樹燐と玲紗に利用された被害者なのである。
「それは……いくらがさつな彼でも、さすがに落ち込んでいることでしょうね」
 天上界は怖い、できる限り無縁でいたいなどと思い、音耶が遠い目で机に寄りかかっていると、父が三度目のため息をついた。
「まだ続きがある」


「――起こってしまった争いを平和的に解決できなかったことは、私の至らぬところでございます。今回のことを深く反省して自分を磨き、万人などと烏滸がましい考えは持たず、せめて愛する人だけでも支えることができる女になるべく、精進しなければなりません」
 指でつつけば壊れてしまいそうな状態の鎖真は、力なく、とりあえず話を合わせることにする。
「そうですか……」空気が漏れているような声だった。「その、あなたの心に決めた人とは、一体……」
「それは、今はまだお答えすることができません。私自身が未熟で、とても気持ちをお伝えできる状態ではないからです……ただ、とても心の広い、穏やかな人とだけ」


 父は眉間に皺を寄せて難しい顔をしている。
「答えられない、と言いつつ、葉鷲実殿は余計なことまで喋ってしまったんだよ」
 葉鷲実はこう続けていた。
『その人は、近くにはいらっしゃらず、たまにしかお顔を拝見することができません。だから私の想いの理由を聞かれたら、具体的に説明することはできないかもしれません。でも、そのお方は私の理想なのです。お若くして難しいお仕事に従事し、きっと苦しいことがたくさんあるはずなのに、苦悩を人に押し付けることなく真摯に取り組んでいらっしゃいます。目立とうとも、お力をひけらかすこともされない純心で無欲なお方……武力を磨くことも、男性として魅力的だと思います。だけど、影で人々を支える方のお手伝いをすることが、私の希望なのです。私はその夢を叶えてくれそうな男性と出会ってしまいました。私の夢は想像以上に難しいことかもしれませんが、だからこそ、もっともっといろんなことを学び、経験を積み、少しでも貢献できる女性になれるよう、頑張ることができるのです』
 音耶はそれを聞き、葉鷲実の誠実な考えにも感心しつつ、そんな謙虚な男性が存在したことに驚きを隠せなかった。
「はー……そうですね。葉鷲実様ならそういう人がお似合いかもしれませんね」
 そこまで自分の夢をしっかり持っているのなら、もう強引に求婚する者はいなくなるだろうと思う。争いが大きくなる前に主張すべきだったのかもしれないが、言えずにいた気弱さも、彼女の魅力の一つなのだろう。
 なにはともあれ、鎖真ほど強力な男でも落とせない女がいることを知りつつ、ずっと心配していたことが一段落ついたことに、音耶は胸を撫で下ろしていた。
 だが、父が彼の安堵を許さなかった。
「お前は、まだ分からんのか」
「え?」
「葉鷲実殿が言う想い人とは」刺さりそうなほど、彼の胸に人差し指を突きつけて。「どう考えてもお前のことじゃないか」
 音耶には意味が分からなかった。いや、意味は分かるのだが、なぜそうなるのかが理解できない。
「……はっ?」
 もし父の言うことが本当なら、大変なことである。
「ど、どうして? 父上は、はっきりとそう聞いたのですか?」
「聞いてない。しかし彼女の言葉を解読するとお前しか該当する者がいないのだ」
「う、嘘です! そんなこと……そんなこと」
 突然すぎてすぐには喜べなかった。父は指を離し、音耶の目を覚まさせようとその手で机を叩いた。
「そう言い出したのは私ではない。他ならぬ、鎖真を始めとする惨敗した武神たちだ。それがどういうことか……分かるよな」
 意味深な父の言葉に、音耶は混乱した頭を必死で整理した。
 勝利を鎖真に奪われて悔しがる大勢の武神、しかし結局、公衆の面前で振られてしまった鎖真。その理由は、他に好きな人がいるから――。
(……その、好きな人というのが……私?)
 それが本当なら、これ以上に喜ばしく、光栄なことはない。葉鷲実は今、天上界で一番競争率の高い美少女なのだから。音耶は遠い世界の住人であり、元々縁が薄い。基本的に消極的な性格で、仕事が多いということもあり、面倒が増えるだけの人付き合いを避けてきた。先代とは似ても似つかぬ貫禄のなさでいつも周囲から舐められていた自分が、まさかそれほどの女性に想いを寄せられていたなんて、これほど幸運なことは他にない。
 音耶の顔がほんのり赤く染まった。
 顔がニヤけ出す、その前に、父が再度机を叩いて喝を入れる。音耶はピンと背を伸ばした。
「バカ者。喜んでいる場合ではない」
「は、はい」
 なぜ父が怒っているのかを考え直す。
 確か、本当に葉鷲実の想い人が自分であるという確かな証拠はないと言っていた。あくまでも彼女の証言から推測された情報なのである。
 それを推理したのが、惨敗を喫し、威厳に傷をつけられた大勢の男たち。と、いうことは。
 男たちの恨みと怒り、そして嫉妬は――。
 音耶の脳内に、全力で自分を睨み付ける武神たちの映像が浮かび上がった。今まで喧嘩すらしたことのない音耶のノミの心臓を握り潰すには十分な迫力である。
「……ち、父上、た、たた、大変です」
 やっと事態を把握した音耶は、途端に目に涙を浮かべた。
「私、このままでは、こ、殺されてしまいます」
 父はもうため息しか出てこなかった。音耶はすっかり取り乱し、椅子から下りて辺りを無意味に歩き回った。
「そ、そうだ、父上、今すぐ、私と葉鷲実様を結婚させてください!」
「な、何を言い出すんだ」
「だって、いいんですか? 大事な一人息子が惨殺されてしまうんですよ。そしたら誰があなたの後を継いでいくのですか。私が殺されたら、孫の顔も見れないのですよ」
「……落ち着きなさい」
「お願いします。今すぐ葉鷲実様と一緒に、どこか遠くへ行かせてください。しばらくの間でいいんです。私が家庭を持って、一人前になったら必ず戻ってきます。だから、お願いします」
「だから、落ち着きなさい。そうは言っても、彼女の好きな人というのがお前だという証拠はないのだから……」
「でもっ、他の人はそう思ってるんでしょう? 違うなら違うと葉鷲実様の口からはっきり言ってくれないと、私は原型をなくすまで袋叩きにされるんですよ。誤解で済む問題じゃありません!」
「わ、分かった分かった……」
 ものすごい剣幕で捲くし立ててくる音耶を、父はどうどうと宥めた。
「葉鷲実殿はきっとまだ本当のことは言わないだろう」
「どうしてですか!」
「自身が気持ちを打ち明けるに至っていないという自覚を持ち、それを守り抜く人なのだから仕方がないだろう。そういうところも彼女の長所として敬ってやりなさい」
「そんな……」
「なんにせよ、血の気の多い武神たちの怒りはどこかにぶつけなければ気が済まないはず。殺されるまでいかなかったとしても、八つ当たりされることは間違いないだろう。お前がその的になったことは、私も重く受け止めている」
 音耶は身の危険を父親にはっきりと認められてしまい、体の自由が利かないほど震え出した。
「とりあえず、鎖真たちに説得はしてみる。そしてここは鬼たちにできる限りで警護させよう。お前が悪いわけじゃないんだから、事態が落ち着くまで堂々としていなさい」
「で、できる限りじゃないですよ! 徹底して警護させてください」
 そうしたいのは山々だが、地獄の鬼たちはいわば動物に似た生態である。腕力だけなら武神を上回るほどであるが、武術を磨いているわけでも、訓練されているわけでもない。やれと言えば従ってくれるとしても、そこに大した忠義心はなく、眠くなれば寝床へ戻り、腹が減れば食事を優先する。金銭欲も出世欲もない単純な生き物ゆえに、完全に操作するのは不可能に近い。
「できる限りと言っているだろう。徹底的となんら変わらぬ。無理を言うんじゃない」
「……ああ、もう」音耶はその場にガクリと両手両膝をついた。「お願いです。もう一人でもいいから、ここから逃げさせてください。せめて、ほとぼりが冷めるまで……お願いしますよ」
 気持ちは痛いほど分かる、が、一度許せば癖になる。立派な男になってもらうため、甘やかすことはできない。
「音耶、立ちなさい。ここで挫けては、葉鷲実殿に興ざめされてしまうぞ」
「だって!」かっと顔を上げ、涙目で父を睨む。「葉鷲実様が本当に私を好きなのかどうか分からないんでしょう? それに、本当だとしてもその気持ちがずっと続くとも限らないんです。何より、殺されたら将来もクソもないんですよ!」
「な、情けないことを言うな。困難を乗り越えてこそ強い男になれるのだ。葉鷲実殿は自分を磨くために努力されている。お前のためにだぞ。だからお前も逃げずに敵に立ち向かいなさい。それに、葉鷲実殿の中でお前はもの凄く美化されているじゃないか。どっちにしても今のままではガッカリさせてしまうのが関の山だ」
「なんてことを言うんですか。私がどれだけ苦労しているか、あなたならよくお分かりでしょう。せめて安全に仕事ができる環境くらい作ってくれてもいいじゃないですか!」
 早めの引退を決意し、無理に音耶を継がせたことは自分にも責任があると、父は目を逸らして声を落とした。
「……とにかく、お前の頑張りは誰かがちゃんと見ていてくれている。諦めるんじゃない」
 勇気づけようとしてくれているのは分かるが、相手が怒りに満ちた武神たちではどう努力しても勝ち目などないのだ。音耶に希望の光は差さなかった。
 脱力して項垂れると、床に涙が落ちた。


 争奪戦が終わり、天上界はだいぶ静かになった。
 あれだけ天女一族を目の敵にしていた女神たちは、どれだけ持ち上げられても一切浮つくことなく自分の意志を貫いた葉鷲実に好感を抱くことになった。
 樹燐と玲紗も例外ではなかった。鎖真を仕掛けた挙句に本人に恥をかかせたことも、そのせいで音耶に余計な危険が及ぶことになったこともまったく気にする様子はなく、悩みがあるならいつでも相談においでと、葉鷲実を可愛がるようになっていた。


 最悪の屈辱を味あわせられた鎖真は、しばらく天上界から戻ってこなかった。同じ思いを持つ武神たちと彼が何を話したのかは、本人たちしか知らぬところとなった。
 ただ、今でも音耶が健在であることから、長期に渡り生傷を負わせ続けた以上のことをしなかったのは確かである。


 そして葉鷲実の想い人が本当に音耶だったのかどうかは、彼女が婚期を迎えたときまで明らかになることはなかった。 <了>



◇  ◇  ◇  ◇

-後書-



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